思い出してホローリくる家族との思い出

221 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2001/08/08(水) 17:57
最後に母と話したのは死ぬ1週間前でした。
平成11年1月22日から静岡での法事とお寺関係の行事があり鹿児
島を留守にしていました。
22日に静岡に着いてから実家に電話したとき留守電でメッセージを
いれ、その後母からおいらの携帯にかかってきたときは
「ごめん、ごめん。ご飯食べにいってたの・・」というものでした。
これがおいらと母の最後の会話でした。
その後、調子が悪くなり入院したと父から聞いたときはびっくりしました
が、まぁ、いつものことだから(入院は)ゆっくりと病院で休んで早く元気
になってくれればいいな・・・
ぐらいにしか思っていなかったのです。
まさか、そのまま帰らぬ人になってしまうなんて微塵にも思わなかった。
1/29日朝、父からの混乱した電話。
「母さんの息が止まった!!」と・・・・。
急いで弟の○○にも連絡をとり名古屋空港から鹿児島へ・・・・。
途中、父からの電話で呼吸も復活して今は落ち着いているということ
だったので、少し安心して病院に向かいました。
病院につくと、ご近所の方や親戚のかたもいて、非常事態だという
雰囲気が伝わってきました。すぐに、病室にはいると・・・・・・
そこには、なにやらたいそうな管とかコードをつけ、呼びか
けても返事をしてくれない母がいました。
なんど、よびかけても・・・・よびかけても・・・・・目は開きません。
呼吸は自分で出来ていたそうですが、意識はなく、ただ機械
の音とおいらたちの声と泣き声・・・・。
その後、医者の話を聞くと奇跡を待つしかない。今は低空飛行が続い
ている状態とのこと。ショックをうけました。
なんで、こんなことに。
医者のことを疑ったりもしました。嘘だと思いたかったです。
交代で母の元につき、手や足をもんで奇跡を待ちます。
時折来る看護婦さんと話をしても状態は変わっていないと言われるばか
り。それどころか、少しづつ悪くなっていると言われました。
29日、11時30分頃・・・母の元にはおいら一人になりました。
今までは、母に向かって「がんばって!」「帰ってきて!」と励ましていた
のですが、その時ぽつりとおいらは言ってしまったのです。
「今まで、本当に有り難う・・・。お疲れさま・・・。本当に有り難う・・」と。
すると、今まで規則正しく波打っていた心電図の画面が急に間延びしました。
はっ!と顔をあげるとバタバタと看護婦さんと医者が部屋に入って来まし
た。



222 名前:おさかなくわえた名無しさん 投稿日:2001/08/08(水) 17:58
でも、医者はなんにもしません。
部屋に入ってきたあとはゆっくりとおいらに近づいてきて「いよいよです。
もう心臓が持たなくなってきました。今の内に会わせたい人を呼んで下
さい」とさびしそうに言いました。
すぐに病院に残っている家族、親戚をよんで母を囲みました。
みんな、様々に声を掛けています。
手を握り、足をさすり、みんな母の最後の温もりを自分の手に覚え
させようとしています。
30日0時26分・・・・もう、心電図の画面は時折、波を打つぐらいでほと
んど直線のままです。
医者も少し離れたところでずっと見守ってくれています。
いよいよ、別れの時が来たようです。
医者はおいら達に近づき、「この少しの波は皆さんが身体をさわってい
るために起こる振動です。もうよろしいでしょうか・・・・」
と言ってきました。
誰からともなく、母から離れ、至る所で泣き声がきこえます。
もちろん、おいらも泣きました。
めちゃくちゃ泣きました。
管とかコードが母から離されます。
看護婦さんが母をきれいにして下さり、母は無言の帰宅となりました。

通夜、葬式と沢山の人が来てくれました。
ものすごく沢山の人が、母との別れを惜しんで泣いてくれました。
おいら達は、通夜・葬式とまるで夢でも見ているような感じで
流れに身を任せ、その時その時を過ごしました。

もっと、もっと親孝行すればよかった。
もっと、もっと母と話をすればよかった。
もっと、もっと母の痛みを解ってあげられればよかった。
もっと、もっと・・・・もっと、もっと。
もう1日早く帰ってきて、意識のある母と話がしたかった。
元気づけてあげたかった。
母は、幸せだったのだろうか。
母は、満足していけたのだろうか。
おいらは、母の息子でよかった・・・。